第50話    「大正期の継竿」   平成17年03月20日  

土屋鴎涯の「時の運」の庄内竿、竿作りの事第4の中に次の文章がある。

「此節(このせつ)の釣士は土を踏まず乗り物で出掛けるので長節(長竿)携帯を嫌い
あたら一本竿を切断して二切、三切の継竿にするが、僕は惜しいことだと嘆息する。
唯見せかけの竿で大物釣る心の無い奴は、結局糊細工の竿でも充分だろうが、彼の専売特許とか云う継竿を見るに尺以上の魚に対しては実に危険だし、尺四、五寸のさかなを引っ懸けては皆へし折れてしまうに決まっている。
家の倅なども東京製の袋入りの継竿を持って三瀬でクロダイを引っ懸けたが、挿したほうが、潰れてしまったから魚は外れ、あらためて見ると、三ヶ所の継ぎ手がみな壊れて居たとて、その後継竿を廃したようだ。

左様、左様〜 この継竿というは、全く汽車乗りの仕方の無い人のため、まず玩弄のようなものでとても大釣士のひねくり廻すもの道具ではないのう。」

この継竿についての感想は他ならぬ土屋鴎涯の意見でも有った。
延べ竿派であった鴎涯は当時としては田舎にあって有識者であったから、もう少し進歩的な一人と考えていたが、「時の運」を見る限りでは釣りに関して意外と保守的な人物の一人であったようだ。事に伝統の庄内釣に関しては厳然として古来の風習を守り通した人物のひとりある。

幕末に藩士土屋伊教の長男として生まれた土屋鴎涯(親秀)は大正2年まで鶴岡の裁判所に勤務の後、酒田の本間家の本立銀行に乞われ勤務していた昭和82月に本間の分家本間祐介氏(当時鶴岡の昭和の名竿師山内善作に師事、酒田の船場町にて釣具屋を開業していた。後戦時中従兄弟の本家の当主に請われ釣具屋を廃業し支配人となった。戦後の本間家の復興に多大な尽力をつくした実業家であり、更に刀剣鑑定家でもあり、数少ない庄内竿の鑑定家であつた文化人としても知られている)の求めに応じて書かれたものである。土屋鴎涯は独学で習得した鳥羽絵風の絵とユーモラスな時には風刺を交えた文章を巧みに配置した親秀独特の絵を描き地方の文人達に大方の好評を博していた。大正期の昭和天皇鶴岡行幸に際して、その技をご覧に入れている。

延べ竿は交通手段の発達ともに、改良されねばならぬ運命にあったと思う。延べ竿の2間位(3.6m)迄の竿ならまだしも34間(5.47.2m)と云う長竿等はとても長さの規制もあって汽車などでは運ぶに大変である。ましてバスに到っては、到底運ぶことの出来ぬ代物であった。延べ竿の良い点は、魚心の伝わり方が手に取るように感ぜられるところであるが、当時の技術の継竿では調子も異なるが、よほどの釣師でなければ微妙な感じを読み取る事が出来なかった。延べ竿派の人達にとっては古来の伝統を覆す事は出来ず、ことさらに継竿の欠点を大げさに吹聴し固執した。その継竿は大正の中頃に入り大八木釣具店(大八木式真鍮パイプ竿=実用新案)から販売されている。その後昭和に入り、山内善作が大八木式真鍮パイプ竿を工夫を重ね改良されたものが現在に到っている。

釣り人の新旧交代で、多少の欠点は目をつぶっても携帯に便利な継竿を使うようになって行った事は、多数の釣り人に継竿なるものが支持されて来つつあったと云う事にもなる。しかしながらその継竿が延べ竿の範疇とされ、大多数の釣り人に認められるようになったのは、それから20数年以上も経過した昭和20年代初めに中通し竿が開発されてからのことであった。